国者が威張った時代

愛国者が威張った時代
 今から60年と少し前、拙者はある会社に就職しようとしてその会社が指定する医院で健康診断を受けた。30代と思える医師が痩身の拙者をみて、「だらしない生活を送っていることはこのからだを見ただけで分かる。これでは軍隊に入ってもお国の役に立てないぞ。もっとからだを鍛えろ」と、健康診断ならぬ人格診断を行った。拙者は格別だらしない生活を送っていたわけではない。骨細でひ弱な体格は、幼少期以来だ。この時期に母親が甘いおやつを制限なしに与えたので、ひょろひょろになってしまったのだ、と彼女は述懐していた。そのせいで骨細になったのかどうか、本当のところは分からない。いずれにせよ、成年に達した頃になっていくら鍛錬しても、筋肉がつくだけで骨が頑丈になるとは考えにくい。そこで、このひょろ長い体格をすべてだらしない生活のせいにして、拙者を蔑視し、非難する医師に憤りを覚えた。それだけではなく、立派なからだを作るのが本人のためではなくお国のためである、という彼の価値観も納得できなかった。さらにそのうえ、医院からの帰途、この医師の理不尽な「診断」に対し、ひと言も言い返せなかった自分自身にも腹を立てていた。
 お国のためにからだを鍛えておけと言うことは、極言すれば戦死するためにからだを鍛えておけと言うことなのだ。ところで当時は医者はめったに召集されることなく、またたとえ召集されても戦場で死ぬことはなかったのである。当時はこの医師のように自分は死なないのに若者に死ねと言う人がかなりいた。学校の教師たち、村や町の自治組織のリーダーなど。もちろん、かなりいたと言っても、人口100人のうち数名程度にすぎないのだが、それでも他の人々の多くが彼らに同調するか、同調しないまでも反対はしないという構成であったから、「お国のために死ね」と言われる側が受ける重圧はかなりのものだったのだ。この重圧のゆえに愛国者が威張っている、という印象が広がっていたのである。いろんな人がいろんな場で、入れ替わり立ち替わって愛国者の役割を演じた。そして、この愛国者たちの大部分は戦場で死ななくても済む人たちだったのだ。

 愛国心の涵養を教育の目的の一つとして教育基本法改正案に盛り込んでいる人たちは、はっきり意識しているかどうかは別として、究極においてはお国のために喜んで死ねる人間の形成をめざしているのだ。ところでこういう人たちは、他人に対してはお国への奉仕を要求しながら、自分たちは結構私利私欲を追求して恥じるところのない人たちなのである。そして仮に不幸にして戦争が起こった時、彼らは安全な場所にいながら若者たちに対してお国のために死ねと言う人たちであると、拙者は確信している。 人間は何のために生きているのか。この問に答えることはむつかしい。そもそも「何かのため」にという問そのものが意味をもつかどうかさえ怪しい。それなのに「お国のために死ね」と言う人たちがかつていっぱいいたし、今も潜在的にはいる。しかし仮に人間は何かのために生きているとしても、お国はその中の一つに過ぎないのだ。それ以外の目的は沢山ある。それなのに愛国心教育はお国以外の何かのために生きようとする人々に対して、お国を優先せよと強制する圧力を生み出す危険性をはらんでいるのだ。
 お国を大事にせよという教育は、他国を侵略し、自国民の自由を弾圧する酷い結果の一因となった。もうこりごりだ。

 また私事に話は移るが、お国のためにからだを鍛えたかどうかは別として体格のよい若者たちは、戦場で数多く死んでゆき、医師に罵倒されたひ弱な拙者は生き残った。そのひ弱さのゆえに徴兵検査では召集がくるのがおそい第3乙種と判定されたためである。お国のためにからだを鍛えた若者がいたとすれば、彼はその立派な体格のゆえに若死にしたのだ。一方「お国のために死ね」と煽った人たちのほとんどは無事に生き残った。彼らは結構「自分のために生き」ていたからである。

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